このまま平穏な日々がずっと続けばいいと思っていたけれど、現実はそう上手くいかない。
ある日の午前中、魔物の出現を知らせる伝令が駆け込んできた。「位置は北東に六マイル。魔獣型と昆虫型の混合です!」
伝令の声が軍団長の執務室から漏れてくる。
ただちに出撃の命令が下されて、要塞内は慌ただしい空気に包まれた。「軍団長」
忙しいのを承知の上で、私は執務室に入った。
軍団長は鎧を身に着けている最中で、目線だけを私に向けた。「何かな。よほどの急用でなければ、帰還後にしてほしいのだが」
「私を連れて行ってください」
「……何?」
手を止めた彼に、私は膝をついて頼み込んだ。
「私はここのところ、光の魔力の練習をしていました。でも、どうしても上手にできなくて。光の魔法が発動したのは、クィンタ隊長の傷を治したときだけです。あのときは彼の体に残っている瘴気に触れて、その存在を実感しました。だから瘴気から生まれる魔物を間近に見れば、何かが変わるかもしれないと思って」
光の魔力は相変わらず不明瞭なまま、はっきりとした成果を上げられないでいる。
クィンタに手伝ってもらって訓練を重ねていたが、それでも駄目だった。 だから私は焦っていた。こんなに良くしてくれている要塞の人たちに、もう少し恩返しがしたくて。 私が本当に聖女だというなら、役に立てるはずだ。あとはまあ、ファンタジー世界ならではの魔物をこの目で見てみたい、とか。
戦っている軍団兵の皆さんとイケメンを見てみたい……とか。 下心もちょっとはある。本当にちょっとだけだから!軍団長はしばらく考え込んだ。
「許可はしかねる。戦場は危険で、非力な女性を守る余裕はない。きみを守るために兵士に犠牲が出ては本末転倒だからな」
「…………」
私は拳をにぎりしめた。その通りで反論ができない。
やっぱり無茶だっ(軽率だったかも……) 後悔してももう遅い。軍団長は可能性を口にしてしまった。 彼を見ると、笑みを浮かべていた。いつもの穏やかな笑顔ではない、どこか不敵に見える笑み。 軍団長は勝ち目のあるケンカだと思っているようだ。 そりゃあ確かに彼の生家は有力貴族で、元老院議員を何人も輩出していると聞いたけれど。 本当に大丈夫だろうか? 「フェリシア。どうした?」 私のすぐ横にベネディクトがいる。彼は出撃後は最前線に出る予定だけど、今はまだここにいてくれる。「聖女の話なら気にしなくていい。『皇太子』と『きみの妹が聖女を名乗った』件は承知している。皇帝陛下が聖女伝説を信じておらず、それらを軽視しているのも」「!」 婚約破棄と帝都追放は、皇太子の独断だったと思う。 皇帝がどう考えているか不明だったけど、聖女そのものを信じていないのか。 それならば皇帝は妹を特別に買っているわけではなく、関心が薄い……ぶっちゃけどうでもいいのだろう。 皇帝が必要としているのは『光の魔力がある』と神殿に認定された女性。 聖女を信じていないなら、表向きに認定があれば真贋は問わないのだと思う。 であれば私がちゃんと光の魔力を証明すれば、泥をかぶるのは皇太子だけで皇帝は見直してくれるかもしれない? 皇帝の責任もゼロではないが、挽回の余地はありそうだ。 軍団長が再び声を上げる。「今回の戦いは、フェリシア嬢の力の試金石となるだろう。お前たちは聖女を守る名誉が与えられた。必ず遂行し、魔物を殲滅させよ!」「おおーっ!」「フェリシアちゃんは絶対に守る!」 兵士たちから熱量の高い叫び声が上がる。 要塞の門が開かれ、ゼナファ軍団は魔物のいる場所へと出撃していった。 私はクィンタに抱えられるようにして、馬に乗っている。 この古代文明では鐙《あぶみ》というものがなく、
このまま平穏な日々がずっと続けばいいと思っていたけれど、現実はそう上手くいかない。 ある日の午前中、魔物の出現を知らせる伝令が駆け込んできた。「位置は北東に六マイル。魔獣型と昆虫型の混合です!」 伝令の声が軍団長の執務室から漏れてくる。 ただちに出撃の命令が下されて、要塞内は慌ただしい空気に包まれた。「軍団長」 忙しいのを承知の上で、私は執務室に入った。 軍団長は鎧を身に着けている最中で、目線だけを私に向けた。「何かな。よほどの急用でなければ、帰還後にしてほしいのだが」「私を連れて行ってください」「……何?」 手を止めた彼に、私は膝をついて頼み込んだ。「私はここのところ、光の魔力の練習をしていました。でも、どうしても上手にできなくて。光の魔法が発動したのは、クィンタ隊長の傷を治したときだけです。あのときは彼の体に残っている瘴気に触れて、その存在を実感しました。だから瘴気から生まれる魔物を間近に見れば、何かが変わるかもしれないと思って」 光の魔力は相変わらず不明瞭なまま、はっきりとした成果を上げられないでいる。 クィンタに手伝ってもらって訓練を重ねていたが、それでも駄目だった。 だから私は焦っていた。こんなに良くしてくれている要塞の人たちに、もう少し恩返しがしたくて。 私が本当に聖女だというなら、役に立てるはずだ。 あとはまあ、ファンタジー世界ならではの魔物をこの目で見てみたい、とか。 戦っている軍団兵の皆さんとイケメンを見てみたい……とか。 下心もちょっとはある。本当にちょっとだけだから! 軍団長はしばらく考え込んだ。「許可はしかねる。戦場は危険で、非力な女性を守る余裕はない。きみを守るために兵士に犠牲が出ては本末転倒だからな」「…………」 私は拳をにぎりしめた。その通りで反論ができない。 やっぱり無茶だっ
読み書き教室は人数が増えたので、食堂に集まっての授業になった。「フェリシアさんの教材は分かりやすい。昔、子供の頃に私設学校に通っていたが、読み書きの教材が古典詩でさ。言い回しは難しいわ見慣れない言葉が出るわで途中で逃げ出したんだよ」「分かる、分かる。教師もムチを振り回すような奴だったしな。あの頃は勉強が嫌いだった。平民の学校なんぞそんなもんだよな」 ユピテルでは寺子屋みたいな形で私設学校での初等教育が行われている。 首都ならたくさんの学校があるし、要塞町でも子供たちが学んでいるのを見かける。 メイドや兵士たちもそういうところで学んだ人が多いようだ。「わたしもそんな感じだったわ。特に計算が難しくて、身につかなかったっけ。フェリシアの教材はすごいわね」 やたら褒められているが、教材は日本の小学校の教科書やドリルを参考にしただけだ。 計算問題はよくある「ここにリンゴが三個あります~」みたいなやつ。 身近なものを例に出したら、みんな分かりやすかったようだ。 あと、九九は暗記してもらうことにした。 歌を歌うのが得意な兵士がいたので、適当にメロディーをつけてもらって九九の歌にした。 みんなで歌って笑いあって、楽しく覚えたよ。 唯一の無念は読み書きの教材をBLにできなかったことかな。 だって軍団兵たちが来てしまったもん。彼らに読ませるわけにはいかないでしょ。 当初の予定では私のBL小説をテキストにする予定だったんだけど、まあ仕方ない。 とにかく学びたい理由がある彼ら彼女らは熱心で教えがいがあった。 今夜も一通りの課題をこなして終わりの時間になる。 するとひょっこりクィンタがやって来た。手にはワインの瓶がある。「よう、みんな。やってるな。お勉強が終わったら、酒の時間といこうじゃないか」「いいっすね! メイドさんたちも飲んでいきなよ」「じゃあ、おつまみになるもの作ってきますね」 そうして飲み会が始まった。 いつぞやは無理やり誘われて嫌だったが、こんなふうにみんな
物語のヒットと商売の配当金でリッチになった私だったが、メイドの仕事は続けている。 本当のところを言えば、そろそろ専業作家として執筆に専念してもいい気はする。 お金の面は問題なくて、周囲の人たちも応援してくれているし。 でも私は、仕事をしながらメイド仲間と萌え語りして、軍団兵たちから萌えをもらって、みんなで一緒に暮らす今の暮らしがとても気に入っているのだ。 実家にいるときは、たった一人で虐げられてばかりだった。脳内妄想がなければ耐えられなかったと思う。それに比べればここはパラダイスだよ。 物語の執筆は、元々寝る前の時間を工面して行っていた。 今だってそれをやればいい。 そう伝えると、リリアは心配そうにしていた。「でも、フェリシア先輩。メイドの仕事は忙しいのに、寝る時間を削って続けるなんて。体が心配です」「そうよ。いくら若くても無理は禁物よ」 メイド長まで口を出してきた。 私は「平気です」と言いかけて、ふと思い出した。 前世の死因が同人誌の原稿のためにエナドリがぶ飲みの無茶な生活をしていたせいだと。 とはいえこの世界にエナジードリンクはないし、当時の年齢よりも今のフェリシアのほうがずっと若い。多少の無茶は大丈夫なはずだ。 そこまで考えて、もう一つ思い出した。この体は本来小さいフェリシアのものであって、私が勝手に粗末に扱っていいものじゃない。 できるだけ大切にすると決めたばかりなのに、私のバカめ。「どうしたらいいでしょう……」 私がしゅんとすると、リリアとメイド長は「やっと分かったか」という表情になった。「あたしたちはみんな、あんたの物語を応援しているのよ。石けんで水仕事が楽になって、ハンドクリームで手荒れだって治った。何を遠慮しているんだか」「そうですよ。だから仕事は気にしないで。物語に専念してください」「けど、それではどうしても落ち着かないの」 私の言葉に、二人は呆れた様子である。「頑固ねえ。じゃあ、あんたの仕事を少し減らして休日
ペンネームは何がいいだろう。 ちなみに前世のペンネームは『かに』だった。当時の最推しの星座が蟹座だったからだ。 今現在の状況で『かに』はないな。意味不明すぎる。 というか、異世界なので十二星座は存在しない。あるのは違った星座で、蟹座も夜空にないのである。さびしい。 なお英雄叙事詩の一番のお気に入りキャラは、王子の兄である王太子。渋くてかっこいい大人の男なのよ! それはともかく、あれこれ考えた末に私は言った。「フェリクス、でお願いいたします」 フェリクスとは『幸運』を意味する。 フェリシアの名前自体がフェリクスの女性形である。 フェリシアという名前は本当のお母さんがつけてくれた。私の今の名前であり、同時に小さいフェリシアの名でもある。 皇太子や家族にバレるのは嫌だけれど、フェリシアの名前自体は大事にしたい。 だから、フェリクス。「分かりました。では、作者は『フェリクス』にしましょう。性別不明でミステリアスな雰囲気になりますね」 本屋はうなずいてくれた。「斬新で大人気の物語の作者が、正体不明の謎めいた人物。覆面作家とでも言いましょうか。ますます人気が出ますよ!」「ふふっ。これはしっかりと続編を書かないといけませんね」 私の物語を待ってくれている人が大勢いるなんて、作者冥利に尽きる。『フェリシア。ありがとね』 私の心の奥で、小さいフェリシアの声がする。『今回はつい、出しゃばっちゃったけど。これからもあなたの心の片隅で、萌えをもらいながら見守っているから』『いつでも出しゃばっていいよ。あなたあっての私だもん』 私が返事をすると、小さいフェリシアが笑った気配がした。「それではフェリシアさん。僕は帝都に戻ります」 本屋の声で我に返る。「ええ。道中のご無事をお祈りします」 遠ざかる本屋の背中を見送って、私は改めてペンを握る手に力を込めたのだった。
本屋と一緒に軍団長の執務室を出る。 本屋は興奮した様子で話しかけてきた。「やりましたね、フェリシアさん。これで僕の本屋はぐっと大きくなります。もう背負子を背負って町から町に移動せず、帝都に店を構えて売り込めるようになりますよ!」「良かったですわ」 にっこり微笑み返すと、本屋は少し息を呑んでから言った。「これも全てフェリシアさんのおかげです。僕、本当はこの物語が売れるかどうかは半信半疑でした。フェリシアさんとリリアさんの熱気に当てられたのを、後悔した時期もあります。でも……」 彼は語る。 おっかなびっくり物語を持ち込んだ先は、ある貴族女性の文学サロン。小さな本屋が出入りするくらいだから、貴族としてそう格は高くない。 その女性に物語を売り込んだ。 フェリシアとリリアと相談した通り、男性同士の絆と情念を要点にして、有名な英雄叙事詩を再構築したものと謳って。 帝都では英雄叙事詩は男性人気が高く、女性は悲恋などのラブロマンスを好む傾向にあった。 だから最初はサロンの女性も難色を示したそうな。私に戦記物は分からないわよ、と。 けれど戦いのシーンはあくまで二の次で、男性同士の人間ドラマを主軸にした物語だと粘り強くアピールしたところ、手にとってもらえた。 手にとってもらってからは早かった。 サロンの女性はあっという間に物語の虜になり、今では日々「王子が、王妃(美少年)が、知将が~」と語っているのだとか。 その人が熱心に布教してくれたおかげで、ネズミ算式にBLの虜になる人が増えた。 今では帝都の文学を嗜む女性の多くがこの物語を愛好している。 一部では男性すら魅了している! なんと、このユピテル帝国でも腐男子が誕生した。 となると先ほど、恥ずかしがらずに軍団長に紹介してやればよかったかもしれない。もったいないことをした。 まあいずれ試してみよう。「これでフェリシアさんの名が、作家として帝都に……いえ、帝国中に轟くことになるでしょう。でも、フェリシアさんは僕と優先契約を結んでいますからね。よろしく